自殺してはいけない理由

目を疑った。

電車の遅延を知らせる、赤色の文字列が、人で混みあうホームの頭上でビカビカと点滅している。

人身事故。

あぁ、またかと思う。

数日前、電車に乗ろうとした私は、線路内に人が飛び込んだことによる遅延で、およそ40分間も吹きさらしのホームで待たされる羽目になった。空気は冷たく、霧のような雨が降っていた。鈍色の遠くの空で、幾本かの雷の柱が立ち、その下に人が居ることを思い出した私は、何とも言えない嫌な気分になった。

思わず、その場で思ったことをスマートホンのメモ帳に書き綴った。

「自殺してはいけない理由などあるだろうか?」

いくつかの自殺未遂者やその家族の手記をウェブで読み、その時に感じた問題点を電車が来るまで書き続けた。

これはその時のメモの名残だ。

 

【自殺してはいけない理由】

自殺してはいけない理由は無い気がする。

なぜなら、それを誰も批判できないからだ。

 

自殺を止める論理を口にする人々。これらの人々がどこに所属しているのか、考えたことがあるだろうか。それは自称教育者だったり、人徳者だったり、宗教者だったりする。

しかし、これらの人々も実は自殺を容認している。

 

教育者が属するのは、国家である。

日本の教育者は、私立や一部の特例を除いて、国家に奉仕するための労働者を育成するために教育を行っている。国家は、戦時において進んで死ぬことを国民に求める。ゆえに、教育者がどれだけ現場で自殺を否定しても、その最終的な目的が国家に奉仕する労働者の育成である以上、国家のために自殺することを容認している。

 

また、宗教には自殺を賛美する文化が存在する。中東で爆弾ベルトを巻いて米軍基地に突っ込んでいる聖戦士たちは、非常に熱心な宗教者である。

彼らは個人の自殺を禁止する一方で、宗教の為の自殺は賛美する。

これは、自殺が明確な自己実現の手段であり、また、その過程で他者を巻き込むことを賛美することに繋がる。歴史上の宗教戦争において、宗教が自殺どころか殺人を賛美した例は枚挙にいとまがない。

故に、宗教者は宗教を信じる限り、自殺を批判できない。

 

最後に、人徳者や道徳教育者の口にする論理だが、これは更に説得力に欠ける。

道徳や人徳とは、すなわち経済である。道徳的な行動=他利行動には、自殺を受け入れざるを得ない状況が存在するからだ。

それは経済的な破綻、凶作や、戦時における物資の不足などとして現出する。自分がたとえ飢え死にしても、他者に食物を分け与えることは利他的な行動であり、これはすなわち道徳であり、人徳である。

また、昨今の経済不振や、人間関係の過剰な複雑さに起因する自殺は、その多くを道徳的な議論の脆弱性に端を発する。

なぜなら、自分が存在しない限りにおいて、他者も存在しないからだ。他者の為に行動するには、まず自己が存在しなければならない。

しかし、経済的に追い詰められ、その日食べるモノにも困る人間に、「自分」など存在しない。そんな「無駄」なことなど考えず、働かなければならない。

また、対人関係において、他者に認められ、受け入れられることの少ない人間に、「自己」など存在しない。自分が認められ、受け入れられることに精一杯だからだ。

ゆえに他者の為に何かをしようにも、まず自己が存在しないために、道徳的な行いは不可能である。

道徳とは、正確に言えば、経済的な豊かさに基づく利他的に見える行為の集約である。

故に、その豊かさが失われれば、道徳も共に消失する。そして、その最終段階において、道徳は道徳的であるがゆえに、自殺を容認・推奨する。

 

これらの議論をまとめるならば、自殺を禁止・抑制・防止する力は、今のところ存在しないのではないかと感じられる。自殺を止めたいのならば、社会設計を見直し、簡単に命を絶てないような工夫をするしかないが、これはコストが掛かり過ぎることから、実行されないだろう。

例えば、電車への投身自殺を止めたいならば、電車を透明なチューブに入れて走らせるしかない。決して線路上に人が入れないような工夫をすべきであって、むき出しの鉄の塊が、人間のすぐそば2メートルの近さを通過できる設計をしている以上、それは自殺を遠回しに容認している。

 

現代の社会とは、そのソフトウェアすなわち教育や宗教、社会道徳や共有された価値観において、むしろ自殺を容認する方向に動いている。また、社会システムの設計上、人が死にやすく、傷つきやすい、様々なミスを抱えている。現代の社会システムは、自殺するための薬とそれを飲むスペースを駅舎に設置する代わりに、自殺防止ステッカーを柱に貼り付けて、人間の体を重さ10トンを超える鉄の塊で殴るといった構造になっている。

執筆者自身は自殺を容認も推奨もしないが、この社会で生きている以上、遠回しに命を奪うことに加担している。それは本記事を読む人間のほぼ全員に当てはまる。

 

故に、自殺してはいけない理由は存在しないように思われる。自殺を止めたいならば、社会の設計更新のコストを支払うか、ソフトウェアを徹底管理するしかなく、これは多様性や機会の平等を謳う現代の民主主義と真っ向から対立する。

自殺を防止するためにできることは、せいぜい、死ななくてもいいように生きやすい社会を作るか、世の中全体のスピードを緩めて、生活しやすい環境づくりに努めるしかない。

または、家族や近親縁者、友人や恋人に頼るだとか。しかし、これらの人々が、本当にその人物を支えきれるだろうか?

個人の抱える問題を、社会や公共の力に頼らずにすべて解決するのは、困難だ。

 

メモ帳から顔を上げると、真っ赤な車体の電車が、ホームの中に滑り込んで来た。まさかなと思いつつ、扉の奥へと足を進める。プラスチックの扉が閉まる。ホームにはまだ人が居る。鉄の臭いがする。